2学期の長女の面談の最後。
実は、、、
と、先生が神妙な面持ちで取り出したのは、算数の答案用紙。
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「答えはあっているんですが、
 書き方に問題があって、
 すでに一度注意してるので、
 悩みましたが、バツにしました。」

ちょっと問題的なこと風に指摘を受けました。


正解だけど○にならないワケ


問題とされる回答。
・漢数字で書いてみる
・ちょっとカッコよい数字で書いてみる
・ちょっと縁取ってかわいい数字にしてみる
・丸をつけるところを、バツもつけたり、時にはバツだけ書いたりしてみる。
・線は、カッコよく太めにしてみる。

先生の考える問題の理由。
これは、小学生低学年にはよくある、集中力の問題であること。
テストの回答の集中力が途切れると、
窓の外を見てボーッとする子、
絵を描く子、
キョロキョロする子、、、
とか、とかがいる。
で、まぁ、たまに、長女みたいに、答案の仕方を工夫してしまう子もいる。

○にしない理由。
これから長くテストに付き合っていかなければならない中で、こう言う回答はバツになる。
だから、早めにダメなことを教え、クセづけするためにバツにした。


テストは楽しい


で、私は、彼女の心境を想像してみる。
多分、
習った、新しいことを使ってみたくなる。
ちょっとした好奇心。
テストを楽しくやってみた。
まぁ、集中力が切れたって言うか、
彼女なりに勉強を楽しんでるってことだし、
まだ遊びと勉強の境目があまりないってことじゃないかって、想像する。

それは、狙い通りでもある。
そして、その気持ち、よくわかる、私は。
習ったこと、覚えたことは、即、使いたい。
なんでも、楽しめた方がいい。

私としては、
まぁ、いいんじゃないかとも思いながら、
バツになった理由に納得してないと、
勉強がつまらなくなってかわいそうだなと思い、
一応、先生の意向は伝え、
なぜそうするのか、長女の気持ちを聞いてみる。


「楽しいから。」


そっか。
まぁ、ならいいか。


テストの本来の意味は?


先生の指摘もわかる一方で、
この指摘自体は、別に問題だとは思えないんですよね。

そもそもテストの意味は、
何がわかっていて、何が分かっていないのかを、
確認するもの。
その書き方はそんなに問題じゃない。


しいて問題だとすると、
あってる方に「○」をつけてくださいと言われてるのに、間違ってるのに「×」をつけるのは、問題を読んでない、素直に答えないので、素直に答えた方が良いとは思う。
あとは、一度注意されたことは、納得できたなら改善した方がいいとも思う。
もしくは、言われていることが理解できていないなら、それは理解力を確認した方がいい。


生きていく力を養ってやりたい


しかしながら、
書き方で、バツになる日本。
なんだか、違和感だなぁー。

それは、
その問題がわかっているかどうかじゃなく、
右向け右で、右向ける人間かどうかを選別されている
ってことなんじゃないかって思っちゃう。

日本は、
どんな人間を創り出したいんだろう。

なんでもキチンと、定められたようにできる人が評価をされる。
想像力ある人はこの社会では評価されないのか。。。

それで本当に、
生きていく力を養えるのか?
いや、この日本では枠に収まる力があったほうが生きやすいのかも。

私は彼女たちにどんな力を身につけてもらいたいだろうか。


枠に収められる教育


まぁ、なんか納得感ない、この正解を正しく書くテストルール。
世の中にはルールがあると言うことを、学ぶ機会なのかなぁ。
しかし、この正しい書き方は、いつ、役に立つのか。

モヤモヤが募る。

社会に出て、そんな正しい書き方なんて、役に立たなくて、教科書通りではうまく行かなくて、
求められるのは、相手のニーズを読み取り、それに応える力とか、
伝える力とか、差別化して表現する力とか、
それは、正しい書き方さえできればとか、
ひとつだけ正解なんてなくて、
むしろ一辺倒では太刀打ちできない。


テストが遊ばずに正解と言われる書き方で正解を書くことがキチンとできるかどうかは、
私はさして、生きていく力にはならない気がする。


数日後、
長女、
次のテストは、普通に回答をしていた。

どうしたの?
やめたの?


うん。やめた。


彼女が納得してるなら、
それはそれで良いかな。

なんか、モヤモヤ考えてました。
学校が取り入れているアクティブラーニングとの矛盾。
日本の教育、
これで、本当に彼女たちに必要な力が身につくのか?
むしろ、やっぱり枠に収められていくだけなのか?


なんとなく、
いろんなことを考えられるようになったことや、
親として教育現場を見る中で、
自分が中学生活が息苦しくて過ごせなかった理由が、改めて納得できる気がするこの頃です。