病室にて安静にしながら、これまでの人生を振り返ったり、今や未来を考えたり・・・


私には、小さい頃からある夢がありました。
物心もつくかつかないかという幼い頃に感じた、テレビに映る映像と自分との間にある違和感的な物。
数年経って、その違和感を取り除けそうに感じた一つの映像との出会い。
答えはそれだ!と、生きる目的を見出した夢でした。

でも、24歳でその夢を諦めました。
ネガティヴではなく、違う手段にきりかえよう、自分に改めて向き合おうという決断。
それは、良い悪いではない。
でも、結果として、夢を叶える事を辞めたんです。


夢を見ることと叶えることは全く違う


夢って、諦めると終わるんです。

そして、
夢を見る、追うことと、叶えるのとは全く違う。

そう、今、いろんな方のお話を聞く機会を通じて改めて思うんです。

それは、
「やる」ことと、
「とことんやる」ことは、違うということ。

「単にやる」ことと、
「続ける」ことは違う。

執念とでもいうべきでしょうか。
夢を叶えるためには、とことんやる、貪欲に、執念を持って続けるということ。


私も夢に向けて、いろんなことをしました。
でも、どんなことにも、出来なかった時に、「でも」「けど」が付いていた気がする。
それは、言い訳。自分への妥協。

夢を叶えるためにとる手段に対して、一つでも、二つでも、妥協がある、とことんが出来てない。
だから、叶わない。

今、振り返れば、本気でその夢を叶えたいなら、もっとなりふり構わず、とことんやれたことはまだまだいくらでもあった。
どこかスマートに生きたい自分がいて、みっともないとか、他がどう思うかとか。
でも、そんなこと関係なく、もっともっと貪欲に食らいつくべきだった、
もっともっととことん成果出るまで努力すべきだったんです、本気なら。

夢を叶えた人、成功してる人、一流の人との違いは、まさにその「とことん」やりどけられるか、やり続けられるか、なんだと思うんです。


目標の達成は始まり


「夢」って、いろんなことを指している。

大きな目標
それを叶えるための中間目標
手段
ゴール、output
outcome
・・・

私の幼い頃からの夢は、大きな目標である人生が終わる時どうありたいか?を叶えるための手段でした。
大学に入って、どまつりに出会い、身近で奮闘し、活躍するたくさんの先輩方に触れて、どう生きるかが大切なことだと感じました。
自分がコミットできるのは、どう生きるか。どう終わるかはその先にある。


改めて、
夢って、そこがゴールじゃなくて、そこが始まりなんだと、いつも思うんです。
まさに、頂きに登ると、次の頂きが見える、みたいな。
次の頂きが見えている場合もあれば、次の頂きが見えないときもある。
でも、今登っている頂きの先の先の、ずーーーーっと先の、まだあるかないか分からないけど、きっとあると信じている頂きに向けて、一歩ずつ登っている感じ。

高校受験も、大学受験も、次への通過地点。
就職も、結婚も、いずれの人生選択も、やっぱりゴールじゃなくて、次への通過地点。
その先にある未来のため、その先にあるなりたい自分のため。
それを見失うと、私は途端に生きる気力を失う。
そう言う意味で、立ち止まった中学時代は、この手段の、日々の意味が分からなかったんでしょうね。

子どもが生まれて、なりたい自分のためではなく、その子のために、自分の選択をすることも増えました。
でも、それも含めて、究極を言えば、子どもと一緒に歩む母になるという自分の人生、どう生きたいのか、そのための一つのためとも言えるかな。



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